カテゴリー:地域で医療する楽しさ 更新日時 2019/02/28
スタッフのための学習会「認知症ケアの哲学と理念」を実施しました。シフトのあるスタッフたちなので2回実施。
最初に私は「あなたは認知症の利用者さんを尊敬できますか?」と尋ねました。
目の前でつじつまの合わない言動をしたり、コミュニケーションができないような重度の認知症の方たちを尊敬できる・・・・簡単なわけがありません。ましてや認知症の行動障害(BPSD)のもっぱらの被害者は介護する人たち。
では、どうしたら尊敬できるのか。それは、「その人を理解する」=「その人の来し方を知る」+「その人の今の思いに触れる」に尽きるように思います。一見つじつまの合わない言動は、その人のありようを理解しその人の気持ちに触れていくとそれほど突拍子のないことではないとわかるようになります。ちゃんと意味が、必然性がある。私たちがわからないだけ。だからこそ「わかろうとすること」が必要なのです。
昔、ベッドサイドにポータブルトイレがあるのにもかかわらず、ふらつく足取りでわざわざ廊下に出てきて放尿するおじいさんがいました。そのたびにスタッフは大困りの大忙し。
その方が家に帰り、私が訪問診療するようになってその理由がわかりました。その家は足寄の市街地から遙か遠く山の中にある古い農家。北海道の古い農家のトイレや風呂場が母屋から別棟になっているということは珍しくないのです。訪問診療に伺うと彼は玄関の前にある花壇に向かって気持ちよさそうに放尿していました。暗くて臭いトイレに行くのと気持ちの良い花壇に向かうのと同じくらいの距離だったから。
「そうか!!」廊下で放尿する彼のイメージは家の玄関を出て花壇に放尿する気持ち良さだったのだ。
だからといってスタッフの大困りや大忙しが減るわけではありません。でも理由がわかると対処できることもあるし、その行動の意味が納得できると大困りの部分はなぜか減る。そして、長い間山の中で営々と土をおこし畑を耕して妻子を養い生きてきた彼の人生に思いを馳せると、その人生に対して自然と尊敬の気持ちが生まれてくるのです。
認知症の人が一見理に適わない行動をすること、コミュニケーションが充分とれないこと、それはケアする人たちの大変さ以上に、できないことが増えていく自分の日々を生きている当事者にとってとても辛くて情けなく悲しくて不安なことだと思いを寄せることさえ出来れば、認知症ケアは相手にとっても私たちにとっても穏やかで温かなものになるだろうと思います。
認知症は特別な病気ではなく、いつか自分や自分の大切な人がかかりうる病気であり、そのとき周りにいる人たちがわかろうと心を砕き、心を尽くしてくれたら、それだけで「自分がここにいる意味と価値」を感じることができるだろうと思うのです。
私たちのケアはまだまだ発展途上だけれども、そこに向かって行きます。
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