カテゴリー:地域で医療する楽しさ 更新日時 2009/11/03
「地域医療崩壊」が言われて久しい。しかしながら、ふと考えると、「地域医療」が崩壊しているのではなく、「医療」が崩壊しているのではないだろうか。人的資源が乏しいから、いわゆる「地域」=「田舎」が突出してそう見えるだけのような気がしてならない。
初期研修が始まり、若い医師達が大学に残らなくなったとか、自分の時間が持てる眼科などのいわゆるマイナー科を選択して大変な小児科とか産婦人科、麻酔科 などを敬遠しているそうだ。それが、専門科の偏在と地域偏在が理由とされている。「だから」大学が田舎の病院から医師を引き上げているのだそうだ。「だか ら」地域医療が崩壊しているのだそうだ。
でも、それらをすべて、初期研修や若い医師達の気概のせいにされがちだけれども、本当にそうなのだろうか?
医療崩壊を制度や政治のせいにするのはたやすい。確かに、診療報酬という形で医療のかたちを形成し医師の自由な診療の有り様を縛ってきた政治の責任も大きい。
本来、医師と患者の信頼関係で成り立ってきた医療が、都会ではすでに「契約」の関係になっていると聞く。患者は医師の技量を疑い、結果を求めてモンスター患者化する。そうさせているのは、社会か医療の仕組みそのものか?
「治っても治らなくても14日を過ぎたら、退院して下さい」
義母が重度の不整脈で入院し、命も危ないと言われたその後の医師の言葉。
14 日過ぎると一日あたりの入院医療費が下がること。看護師の配置で在院日数が制限されていること、で病院側がそう言わざるを得ないことは、医師である私はわ かっていた。それでも、その言葉を聞いて愕然とし、医師への信頼を大きく損ねる結果となった。医療に関係していない他の家族達は怒っていた。 ひとりその 医師のせいではないけれども、医療に関係のない人たちにとっては、それは、無慈悲な言葉以外の何物でもない。
そして、医師も治したという実感も持てないまま、感謝の言葉ももらえず、患者を送り出す。そして、繰り返される過重な労働。医師達もまた疲弊し、思いやりの心を失っていく。悪循環が繰り返される。
私達医師が、命と向き合うという責任の重さに耐え、夜昼ない過重な仕事に耐えられるのは、そこにやりがいを感じられるという、その一点だ。
命も危ないと思われた患者が生還し、涙ながらに感謝される時。
癌の末期で緩和ケアを行い、そこに輝く命の最期の炎に照らされる時。
診察を終え、振り返り振り返りしながらバイバイしていく子どもの笑顔とその成長を見る時。
医師の日々は毎日が感動のドラマではないけれども、他の仕事で得られないような、深い喜びや感動に出会える瞬間を持てることがある。
そして、地域での医療は、幸いなことにまだ「契約」ではない。日々の暮らしを通じ、共に地域で生きる隣人として、私達は医療の仕事に就いている。彼らのことを生活から知り、彼らの生活を支えるために私達の医療があると知っている。その誇りが私達にはある。
在宅酸素で呼吸不全患者の80歳のAさん。呼吸不全が急性増悪し、心不全を合併して救急車で来院となった。動脈血中の二酸化炭素は100mmHgを越え、意識はもうろうとし、命の危険があった。
「帯広で治療をしますか? 私達の病院ではできることの限界があるから・・・・」
彼らの選択に委ねた時、彼らの結論は「ここで、最善を尽くしてくれれば、結果はどうあれ、それが父さんの命のありようです。ここでお願いします」というこ とだった。私達は、彼らの信頼の深さに心を打たれ、そして持てる力を尽くした。幸い、急性期は脱しつつあり、病室には夫婦の明るい憎まれ口も復活しつつあ る。
誰の命もいつかは終わる。納得して終われる命であればいいと心から願う。そして、地域だからこそ、「契約」ではない、「信頼」の医療があり、私達の力を尽くした医療は結果だけではなく、思いで報われることもある。
だから、地域で医療することは大変だけど楽しい。苦しいけれども辛くはない。とそう言える。
若い医師達が医療の世界に足を踏み出す時、その喜び、その責任にやりがいを感じて欲しいと心から願う。その想いを伝えるべく、私達は研修医を引き受け、教 育に携わっている。技術や知識だけではなく、医師として生きていく姿を伝えるのも私達、先輩医師のつとめではないかと感じているから。
過日 町民センターで50名を超える方たちに心の健康についてお話しさせていただいてきました。 「気づき つなげる あなたの優しさ ~大切な人のいのちを守り…(続き)
認知症の学習会で伝えたもう一つのことは「ありがとう」 認知症の方が持てる能力の最大限を使って日々を生き、私たちのケアを受けて下さっている。 私たちはそのことに「ありがとう」を伝えていますか?…(続き)
スタッフのための学習会「認知症ケアの哲学と理念」を実施しました。シフトのあるスタッフたちなので2回実施。 最初に私は「あなたは認知症の利用者さんを尊敬できますか?」と尋ねました。 目の前…(続き)
老健での看取りを重ねて、命を自然に終えることを強く意識するようになりました。がんであれ非がんであれ、高齢になっていのちを終えることに大きな違いはないように思えてきたのです。 最近心がけている…(続き)
治らない病や進んでいく障害と向き合うことは苦しい。 年を取るということは、究極、いのちの終わりに向かって、進んでいく障害を受け入れつつ生きることに他ならないとさえ思える。ましてや認知症や神経難…(続き)