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命を支える

カテゴリー:ターミナルケア  更新日時 2008/09/28

 地域で医療を始めて20年以上が過ぎた。父の死によって突然予定外の「地域医療」への方向転換だった。元々は心療内科医になりたかった。心身医学会で若 手研究者へ与えられる「石川賞」も受賞したばかりで、自分で言うのも何だが「新進気鋭」だった。悩んだけれども、足寄に戻ってきたのは、道半ばで倒れた父 の無念を思ったからだし、心身医学は地域でもできると思ったからだった。
 でも、地域は手強かった。31歳の姉ちゃん医者の手に余った。自分が学んできたこと、正しいと思ったことは受け容れられなかった。迷い、悩み、前が見えない日々が続いた。

5年くらいした頃だろうか、あるおばあさんの一言が私の迷いを吹き飛ばした。
「この病院で死ぬって決めてます。もう充分生きたし。私を他へ遣らんで下さい」
病名は胆石で死ぬような病気でなかったけれども、涙ながらのその気迫に押された。そして、生かすことばかり考えて、むやみに延命をしてきた大学病院時代を思った。
  生まれ暮らした地域で「ここで死にたいと思える病院」を作ってみたい、と始めて思った。今思えば、受け身に父からの継承をしたときから、自らの病院作りを 意識した瞬間だった。幸いなことに、そのとき病院の再生に力を尽くして下さっていた池田院長(現理事長)も同じ価値観の人だった。
 多分その日から、長い年月をかけてその思いを紡いできた。
その延長に我妻病院の緩和ケアのスタイルが確立してきた。
WHOのガイドラインに従っての十分な苦痛の除去、同じ町に生きる隣人としての心を持ってのあたたかな看護、家族を交えたケア、家族を支えるケア、亡くなったときの死後入浴、49日ころにお伺いするお悔やみ訪問。
そして、その前提は尊厳ある命を地域で支える、ということだ。
 それは、癌だけではない。高齢者や神経難病という緩慢に死に向かう人たちへのケアも同じだと思い、安心して死ねる場所として介護療養病床も作った。すべての病室は1ベッドあたり老健なみの8平方m。一部個室にはテラスもつけた。
 在宅と病院とどこでも、状況によって本人と家族の好きなように療養の場が選べる。どこでも同じような安心とケアが受けられる。
 これらの理想形が完成したとは思っていない。でも、願い続けること、前を向き続けることが大切なのだと思っている。
 「私の時にも、先生、頼むね」
亡くなられた後で、そのご家族が挨拶に見えられて、このように言って下さることが少なくない。そのとき、私は見えないけれども、とても美しい勲章をもらったように感じる。家族の方々と同時に今は亡きあの方からも。

死の臨床研究会年次大会のお知らせ 地域で「命を支える」ということ

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